200924 輪るピングドラムのこと

輪るピングドラムを1回観た感想とかです。口語

冠葉はさあ 陽毬のことが好きだったじゃん でも家族であるということで必ず陽毬に選ばれて救われる(実際の描写とは一致していなくても選ばれる・選ばれないの機会があったら陽毬は間違いなく晶馬と冠葉を選ぶ)立場にいたよね それが運命なんだね
 
これは家族愛友愛親愛みたいなのではなくて冠葉から陽毬への愛が性愛(恋愛?)だと思ってるから感じたこと 恋愛で自分が好きな相手から選ばれることは非常に稀でその「選ばれなさ」はすごく苦しいんだけど家族が恋愛の相手であることは禁忌でありつつ「絶対的かつ代替不可能な愛」を手に入れられるということだと思う 冠葉は選ばれたい相手から求めている形とは違う愛でも絶対に選ばれる これがずるいなあと思います
 
陽毬と冠葉の愛は互いに性質が違うけれどたしかに存在していて、わたしが冠葉から陽毬への愛が恋愛(性愛)だと解釈したのはプリクリの登場→晶馬を脱落させる→(2人の)生存戦略をセックス(これは陽毬が冠葉の持つ愛の性質に気づいているというだけかもしれない)の言い換えかと思ったから 晶馬が排除される理由は冠葉(と冠葉の愛を理解している陽毬)が晶馬には見せたくないきょうだいの姿だからかなと(冠葉のセリフ:汚れ役は俺・陽毬を助けるのは俺等) 冠葉が代償を払って陽毬の命を保たせてるというだけなのかもしれないんですが高倉兄弟とプリクリが対峙するシーンを初めて見たときからセックスだな…と思っていました わたしがおかしいの?
 
愛が家族を作るのか、家族に愛が生まれるのかと思っていたけどどちらもありなんですよね…
そもそも家族とは赤の他人同士の出会いによるものなので家族ごっこと呼ばれる陽毬・晶馬・冠葉のかたちも家族で間違いがないという 家族になる≒婚姻はそもそも愛がなくとも行えるので、愛が作った家族としてはそういう婚姻よりも純度が高いかもしれない
 
箱について
眞悧の語る箱の話は非常に自分が昔から考えて感じていることに近くて、眞悧せんせーのことを好きになった 人は突き詰めていけばずっと1人で、家族がいても仲のいい友達がいても自分の考えも感覚も実は共有(シンクロ?)できなくて(共有という言葉は存在しているが絶対に実現できないものの1つ)、それが分かられたい・分かりたいという願望(≒愛かと思います・自分が好きな人間のことを1番分かりたいし、好きな人間に分かられたいしできることなら同一化したい)の根源にあると思っている
※物語の中で晶馬と冠葉の共有ないし分かり・分かられることの変化に着目したい…
 
苹果からの歩み寄りを晶馬は確か拒否して、苹果はひどく傷ついて浅はかだったと悔いていたと思うんだけど、分からないだろうと拒絶されることで自分と相手は異なる個体でその記憶や経験が交差することは決してないということを知る 無知の知的な でも分かれなくても高倉家と、晶馬のために苹果ができること、苹果しかできないことがあった
 
高倉兄弟が呪った高倉の運命
高倉兄弟は高倉家に生まれ・引き取られなければ自分たちの運命(高倉の姓)を呪うこともなかったけれど、高倉家に生まれなければ、高倉家の子どもにならなければピングドラムを手に入れることもなく、その存在に気づき自らの運命を受け入れることもなかったのでしょう 卵が先かひよこが先か的な話だけど高倉家の子ども3人がそう在ることは必然だったんだなと