220107自分を編むこと・最遊記について

最遊記連載開始25周年おめでとうございます!好きです。

セクシュアリティも感情も好悪も学習され、編まれるものであり、わたしたち人間個々の器から絶対に共通したものが生まれ出るわけではない。人間が人間として暮らす以上、外部からの影響を完全に排除することは不可能だ。しかし、誰かの影響を受けて好きになったものに対し、その相手とは違った感情や感想を(これは一言一句同じ感想文を書いた場合も、厳密に全く一緒になることはないため)持つことになるはずである。物事の結びつけ方、思考に用いる言葉のくせが個々人の経験と学習に影響を受けて独自のものになる。そうやって立ちのぼってくるのが、個人が持つ個性というものなのではないかと思う。

だから同じ授業を受けた同級生も自分とはかけ離れたところにいるように感じられるし、解釈違いは起きるし、戦争はなくならない。口論レベルであれば世間や周囲が何か大げさな対処をすることもないだろうが、個人間でそれをきっかけに対話がなくなってしまうのはさみしい。

アイドリッシュセブンに和泉三月というキャラクターがいる。三月は、対話をやめない・あきらめないキャラクターだ。わたしは三月がすごく好きだ。三月は、どんなに自分の言葉が閉ざされた相手の心に届かなくとも、語り続ける。それが熱血で古臭いと言われればそうだし、ウザいと言えばそうかもしれない。三月は、わたしたちの世代・社会が失っているような前向きなコミュニケーションのお手本をみせてくれていると思う。前向きというのはテンションが高いとか内容が明るいということではなく、耳が痛いが正しい指摘で、相手が実は望んでいる方向にまっすぐと導くという意味だ。

熱血は流行らない。努力が必ず報われる時代ではないからである。努力と熱血はセットで存在する。努力といえば「友情・努力・勝利」の三本柱でやってきた少年ジャンプだ。最近のジャンプは努力しているのだろうか。努力はしているかもしれないが、無邪気に勝利を目指すだけのキャラクターは減っているかもしれない。最近の流行りは、何かしら不具合を抱えたキャラクターのように感じる。マイナスからのスタートで、失ったものや傷ついた過去を今進むことで埋めていくようなストーリー。受け手がみんな、自分の不幸をキャラクターに重ねてコンテンツに接しているような、そんな気がする。異世界転生もののブームもそこに関連しているのかもしれない。自分が詳しく知っているジャンルではないので印象でしかないが、親ガチャとかまさにそうである。親を変えるのは、転生しかない。転生を信じる人間のどれほどが仏教の輪廻転生の概念を知っているのかは分からないが…。

これまでもたくさん書いている内容だが、最近は冷笑的であることが、当然でスマートでクールだとされるような気がしてならない。それでもわたしは、そういう態度でいて立ち止まることに意味が見いだせない。意味がないことはしたくないので、結局自分のために他人を気にしたり(わたしの中では、他人を気にすることができる自分というのが、自己評価に直結する)、署名活動をしたりする。どうしてなのかと思うが、結局自分の経験によるところが大きい。

生まれた年からはじまって、自分の節目の年には何かしらの大きな事件が社会を揺るがし、自分の無力さを感じた。無力だと思うからこそ、社会と自分の関わりを強く意識する性質が会得されてしまったようである。何かをしてもしなくても変わらない終わる世界にいるのであれば、自分が良いと思う方、誰かにとっては良いことを選んだ方が自分の気分が晴れるというわけである。

潜在意識にこれを刷り込んだのは衝突しても対話をやめない、自分だけの味方でいる、最遊記に登場するキャラクターたちのような気がする。初めて読んだ当時は全然そんな思考をしてはいなかったが、今になると書いてあることがわかる。自分が生きていてほしいと思うから相手を生かす、そういうわがままさで成り立つ関係が三蔵一行のような気がする。最遊記で、キリスト教の隣人愛の引用はあったっけ…。とにかく、自分のことを考えられない人間には、他人と関係することは難しいんだろうと思う。わたしはそれができているといいなと思うが、できていないかもしれない。がんばろう。

最遊記本編を全巻貸し出ししている友人がぽつぽつ感想をくれるので色々書いてしまった。やっぱり峰倉先生の書く言葉が本当に好きだ。友人は、これに中学生のころに出会わなくてよかった、出会いたかったと言う。わたしは中学生のころに出会ってしまった…。自分の今に影響を与えてくれたものはたくさんあるが、かっこいいと思う言葉も思考も構図も人間の体型も(マジか…)元をたどれば最遊記じゃん…!ということが多いので、今でも変わらず好きだ。昨年、シリーズをあらかた手に入れたので本棚に収めるために読まなくなった本を段ボール1箱分処分した。過去の自分に影響を与えたものを、好きなものを今でも好きでいることは、自分に織り込まれた嫌なことも苦い記憶もまとめて、過去の自分を好きでいることであり、今立つ、この自分を好きでいられることだと思う。

25周年おめでとうございます。峰倉先生にわたしの寿命を半分あげて、好きなだけ漫画を描いてほしいです。