230301

日記

 

物語が、舞台や小説がわたしと現実をつなぐ点となっていてそれは昔からずっと変わらないと思う。英雄譚や冒険譚に教訓を夢を求め、理不尽に否と告げること、またそれがそもそも理不尽であると理解した。わざわざこんなことを書くのは、今新しい物語の受け入れを止めていて、どうしてこんなに他のものに触れないで自分が気になると思った分野と、積んでいる本に映画に触れようと思ったか考えているからだ。自分の将来に不安があり現実のことを考えるほかないというのも理由のひとつだし、もう自分も楽して楽しいフィクションばかりみてしまう癖を治さないとなんとも、過去の自分に示しがつかないなと思うのも理由である。幼い頃はもっと色々なことに胸を痛めて、過度に責任を感じ、それを正したくて、それを主張するにふさわしく主張できるポジションに立つ人間になりたかった。なれなかった(なる努力をしなかった)ので、せめて今は、知るだけでも何か世界が変わって見えて、自分のことをマシだと評価できるのではないかと思っているみたいである。もうこれは明らかにモリミュと俳優の影響なのだが(笑)作品に触れるにあたって、そこから何を学び取れるか、自分がそこから枝葉を広げてどれだけ現実の自分や世界を変えたり・必要あれば守れたりするか考えるべきなのだと思う。なので今はそういう作品に触れたいと偏ってしまう。難しいからおもしろいというのは明らかに間違いだけど、難しいから、抽象的だから想像の余地があって色々なことに結びつけて考えられることもある。ただおもしろかったかっこよかっただけで、それはもちろん悪いことではなく、それを居心地が悪いと感じてしまうのは自分の気持ちの問題だ。

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自分が原因で縁が切れたひとのことを考える。わたしはそもそも自己評価が高いようで低いので、自分のことを誰から距離を置かれてもおかしくない人間だときちんと思い込んでいる。そのくせ他人から承認されたくて、他人とsteadyな関係が持てたらよいなと未だゆめみているのだ。基本的にみんないつか死ぬし自分もいつ死ぬかわからないし、永遠はなく、元々持っていないものを持った気になっているんだと思う。持った気になっているだけだから、実はなくしてもそこまで心が動かない。自分に対して正当な評価が下っただけなのだ。

自分の醜いところも好きなところもきっと同じくらいあって、自分にはなくて他人が持っていると羨んでいることは星の数ほどある。わたしが羨んでいることはそのひとの長所だから、もし読んでいる友人知人の中に褒めて(?)ほしいひとがいたら声かけてください。わたしが他人を好きになるのは、ほとんどその相手になりたいということと同じだというのは前にも書いたけれど、この、他人の長所を見つけるのが得意だというのも他人に強く妬みを感じていることの裏返しであり、どうやったらそんなに複雑なことを考えずに他者と関われるのかと悩む。だから「関わる」まで関係が存在しない芸能人とかフィクションの人間のことしか安心して好きになれないのでしょう。わたしの中に純粋な(?)好き(?)は存在せず、ただ妬みとニアリーイコールの好きと、怒りとか悲しみとかしか存在しないのであれば、この先もそれは変わらないのであればさみしいと思う。