230306

日記

 

表参道で友人と友人の初対面に立ち会う人間になっていた。2人はヴィジュアル系が好きで、わたしはふつうに聴く(?)程度である。3/5はEXシアターでナイトメアのライブがあり、その前にお茶をしようということになったのだった。周囲にはおビジュを聴く子が多いのだが、なぜかわたしはきちんと通ったわけではない。ふつうにしゃべっていた気がしたけど全然まともにしゃべれていなかったな~と反省した。向き合う人間が違えば当たり前に自分が出す面も、共通して用いて平気な単語も変わる。わたしはたぶん昔からその差が個別に大きくて、小学生ながらに家にいるのと学校にいるのは違う人間で怖いと思った記憶がある。今もそれは変わらない。

まじめたらしく書いているが、ここ最近でいちばんうれしかったのは先の友人たちと会えたことと、かなり好みの二次創作に出会えたことである。一生新しい漫画を読んで二次創作を読んで暮らしている。

Twitterをやっている人間はおそらく、総じて情報中毒で何かしらアップデートを拾っていないと死ぬんだと思うが、今の自分は友人のアップデートも確認したいがもはや何も見たくない…と思うことが多い。読みたい本(タスクとして発生させた義務)が山積みになっているからだろう。そしてこれまで知らなかったことについて自分で情報を仕入れる方が今は楽しい。定期的に訪れる、おもしろかった作品の後に一定期間何もすることがない…と思うやつになっている。ふつうに試験勉強をしないとならないのと、本当に、読みかけの本も積んでいる本も観たい映画もたくさんあり、なぜ3人に分裂できないのか、1日は36時間ないのか真剣に考えている。中学生のころ、歩きながらしか読書する時間がなかったのでそれをやっていたら親族から母親にチクられたことを思い出す。チクるなよ。好きなものも、好きな人間関係も書きたいのだがいかんせん知識がなく唸るだけになっている。本当に早く課題にしてしまったものをやっつけではなく…しかし素早く読み終えたいと思う。難しい。試験のために問題集を解くのが必要になると一気に生活が中学生のころに戻った気分になる。英語の勉強はまあ、勉強っぽくないのだが、これまで知らなかったこと・学習した部分について問題を解くのはなかなかないことで楽しい。

もはや身近にいる人間とは似たことをしていない気がするので比べなくともいいのだが、やはりぼんやりと自分は身分が低いのだなあと思う。大学に編入したり、休学できたり、選択肢が多く、いわゆる「社会不適合」でも落伍者とならずに暮らしていけるのはそれだけ身分が高いからだろうなと思ってしまう。それを受け止めるだけの力が周囲にあるからそういったある種ケアが必要な人間が存在できるというか、わたしは環境が人間をつくると考えることが多いからその結果自分は今、こう、まあ無難な人間として歩いているんだろうなと考えている。突飛なことをせずグラフの平均を拾って暮らしていく。やらないとならないという必要に迫られてできるように・自分に義務として課してきたことが多い。だからそれを褒められたところで普通のことができるだけですよ…とか思ってしまう。

できない・できる理由を環境に求めるのは自分の努力さえも隠すことだけど、それでもと思わずにはいられない。個人の悩みの重さを比較することは不可能だと分かっていても、自分より「持っている」人間の悩みなんて自分よりもどうにかなることだろうと下にみてしまう気がする。Twitterを今やらない方がいい理由10選みたいな日記である。一生自分に対して不満を持って、劣等感を抱いて生きるはずだと以前友人と話したことがあったけれど、これは本当にこの先も変わらないんだろうなと改めて思う。20-30代の車も家も家族もたぶんそれで何か得た気になるからなのでしょうが、自分からしたら自分以外の部分に何か自分の価値的なものを見出すためのツールを手に入れることにすぎないのではないかと思うし、これも友人と話したな…。それで自分の空虚さが埋まるのであれば安くていいですねと思う。ひたすら毎日こう暗い気持ちで過ごしているわけではけしてないが、もうちょっとなんとか早く、ちらちら見える暗さから離れられないかと考えている。