DisGOONie presents Vol.12-玉蜻(たまかぎる)~新説・八犬伝 雑感 #たまかぎ

内容が分からないみたいなのが散見されましたが、それは普通に…覚悟不足なのではと思った公演でした。わたしは楽しめたものだからこそ「自分は」楽しめなかったみたいなのを見かけるとそうか~思う。わたしは演劇を高尚なものにするのは気持ち悪いから嫌ですが、ある程度作り込まれたもので、それ相応の値段がついている。だからこそ全員がぱっと観に行って理解できるものでもない(基本的に)と思っている。

そこからそもそも「推し」が出るからどんな作品でもとりあえずチケットを取るというのは浅はかではないか?自分にとってお金を払ってでも観たい・楽しめそうだと思えるものを、自分で選ぶ目が必要なのではないか?ということをめちゃくちゃ考えた。

 

はじめに(長いうえに壮大・読まなくてもいい)

今はどこもチケット1万円するし、さっき観たいな~と調べたホリプロの公演は1万5千円近かった。家電を買い替えるのと、家を買い替えるのと同じように桁こそ違えど自分が何のために(自分のためであるべきだと思う)、そのチケットを買うのかよく考えるべき。

友人と話した結論から言うと、好きな人間が動いているのを観たいだけならアイドルを好きでいた方が楽である。俳優を好きでいるならある程度選り好みせずに物語を楽しめる自信があるべきだとわたしは思うし、その自信がないなら自分の持っている最初の公演までにその自信をある程度つけるべきだと思う。俳優を好きでいるには、舞台作品を観続けるにはたぶん素質が必要である。これはなんだかすごく意地悪な言い方でマジで最悪だなと自分で書いていても思うけれど、それなりの額のお金を使うなら自分が楽しめるものに使った方がいいと思うからだ。わたしも大した数入ってないのに好きなものが多いため一生チケットを買っている。普通に、チケットは、高い。チケットを買うことに慣れすぎてしまっているので、たまにヒーローショーとか、イベントのチケットを普段使っているイープラとかで見るとすごい安いなと感じてしまう。バグです。

S席1万・A席9千円程度の観劇は本当は庶民の趣味ではないと思う。多く観ることが善とされるのは、あくまで興行主の立場に立ったときだろうし、それを消費者が語るのはなんかおかしいと思う。まあみなさん言っていることかもしれないし、普通に金がめちゃくちゃある客におかれましては、この意見をダセーと思うかもだけども…。わたしは、この説教くさい文章を、これだけ民が貧しくなってるのにメディアがオシカツとか言ってよくわからない消費を生み出すこと・その犠牲になる人間への愛…のつもりで書いている。

舞台作品はnot for meであると事前に察知できる場合も多々ある。そのためにも、前に観てこれはあんまり好きじゃなかったな~という作品があればその原因を探った方がいい。わたしの場合はずっと暗めの、トーンがシリアスな…ファンタジーというか、明らかに現代劇ではない作品が…好きな場合が多い(もちろん演者・演目による)ので、今後何か迷ったら演出・脚本家の過去作を当たって、演目の知りうる限りの情報との相性を検討したいなと思っている。そして普通に、世界にはおもしろそうな公演も本も、死ぬまでに手を付けられないだろうな~と思うくらいあるので、キービジュが好きじゃない・事前情報で嫌な予感がするなど何かあったら別に行かなくてもいいと思うし、初日に入ってその後のチケットを全てを売り払ってもいいと思う。おたくは自由。というかそもそも我々は自由意志に基づいて消費をする主体なのであり、好きな人間だからと相手に(ほぼ)隷属するのはおかしいと思います。

そして今回、西田さんの作品が基本3時間超えるというのはわたしがジャニオタだったときにも見かけてワロタ…となったし、そこに関してはみんな、リサーチが足りないよみたいな気持ちになった。まあわたしも3時間半くらいに収まるだろうと思って後に予定を入れたら明らかに間に合わないな…となり、キャンセルしたりしました。これはしょうがないですね。しょうがないと思えるのもひとえに、西田さんと感性が合うから許せた以外ない。やっぱり合う合わないによって人間は同じ事象に対しても受け取り方が変わるというよい例。まあでも、普通に、上演時間が長くなりそうならヤバいかも!って報告してくれてもいいとは思う。現状やりたいこと半分やっただけで5時間ありますとかさ。連絡も遅かったし。報連相の2つが欠けてるのには普通にイライラしました。もう1週間切ったよ!3日前だよ!って毎日言ってました。客だって都内住みの人間だけではないだろとなっていた。飛行機遅らせた~っていうのも見かけた。

本人脚本/演出の別の作品初見のときから、この人(西D)登場人物全員好きなんだな~と思ったので、原作ものは原作を知ってた方が楽しいだろうな~と思うようになった。そのため八犬伝なんてまんま…八犬伝だし、わたしは八犬伝を知らないし、読むか…となりました。好きな人間が出る・好きな脚本/演出の揃った舞台を、できる限り楽しみたいよ~~と思っているがゆえの行動だから他人がやらないのに対して、おかしいとまでは言わない。それでも、できる限りのことをして楽しめなかったら自分の中でも踏ん切りがつくと思うけど、やり残したという思いを抱えて楽しめないのが自分にとってすごく不愉快ではないか?と思うからの行動だということは書いておきたい。これって受験前、問題用紙が回ってくるギリギリまで単語帳で苦手なやつを頭に叩き込んでいて、それが出題された経験があるか否かみたいなとこある。努力が明確に報われる成功体験…?そんな話なのか…?歴史ものであれば時代背景・外国が舞台なら当時のその国の様子を頭に入れるとかは普通にどんな作品でもやった方が間違いなく楽しめるはず。

あと、自分のところ主催公演をやるにあたって若手俳優(?)をキャスティングするのって、他の作品で関わりができて好みだったから演らせてみたいとかもあると思うけど、演劇に触れる層を厚くしたいとかもあるんじゃないかな~とこれは勝手に考えている。「演劇」の潜在顧客の掘り起こしとして考えたらまあ、合う・合わないが別れてしまうのは仕方ないんだと思うし最初に書いた適性の話にもつながるのではないだろうか…。何も知りませんが……。

予習について:『舞台・ダブル』をめぐっての雑感

ここまで書いて保存した後に紀伊國屋でダブルが発表・上演されて、『舞台・ダブル』の予習範囲って間違いなく漫画以上のものになるだろうな(演出:中屋敷法仁/劇場:紀伊國屋)と思いチケ取りを渋ったのですが、その予想が見事に当たってしまった。初級革命講座-飛龍伝とか熱海殺人事件を観てる観てねえ中屋敷法仁に見識があるないなどで意見?印象?が割れている。

わたしは予習できる範囲ではやるが、限界を超えるものに関しては悔しいとか置いていかれた感じがして悲しいと思ってしまうので、それ(舞台作品〈=ほぼ予習が不可能―たしかに『初級』は去年上演されていたが、それを観た層だけがターゲットではないだろう/小説もあるが…またそれは舞台作品と別物だろう〉を参照しながら観るように作られているの)は…いただけないのでは?と思っていた。

だし、そういう「わかっている側」の感想を読んで、気落ちしたり自分の観たものを上書きされてしまうひともいるだろうと思うので…。これをきっかけに(?)なにくそという気持ちで『初級』とか演劇史(もはや…?)的なものに興味を持ってもらいたいという意図があるのならば、そうだとはっきり言った方が一部の客を見下した感じ(そんなつもりは毛頭ないと思うが)にはならなかったんじゃ?などと思う。

あとダブルの作者野田さんが『初級』を漫画でやりたかったらしいのですが、これってダブル読んでいる人間が全員知ってることだったのか?とは思いました。それを知ってたらまあ今回のようなことにはならなかったのでは…という気がせんこともない。なんかあまりにも客を割った作品だなあと思って外野として見てました。

実際に初日観劇した友人からは「そんなん関係なしにおもしろかった」と感想をもらったので、まああまり意識せず(調整できなかったので)配信で…観ようかなとなっています。友人を撃ち落とした井澤せんせーが観たくて…(笑)果たして宝田多家良に恨みを抱かず愛姫とのツーショを見られるのか!?原作を読み返したところそんなに憎くないのですが実体になられると無理かも…愛姫もいっちゃんもかわいいので……。

物語について(信頼できない語り手による)

八犬伝。でも伏姫がばりばり居る。居るというか「あちら」と「こちら」を行き来する存在・元凶・語り手として存在している。全体通じておたくが好きなやつを7分毎とかにぶつけてこられて、初日を観ているときずっとニヤついていた。原作(児童向け)を必死に読みながら観てたのですが、原作とはあえて違う設定にして(ルート分岐のための選択肢が3つあるとして、TRUEに入る選択肢と微妙な差のやつを選び続けていくみたいな…)、まあそれが新説ってことなんだけど、円環になっていておもしろかったなと思いました。伏姫の因縁がなければ八犬士はこの世に存在せず、お互いの人生に影響を与える相手とも出会わなかった・因縁/呪いをただそのままにして終わるのではなくそれをきれいに補修して終わるというか…。ここまで書いて本当にそうだったのか不安になってきた。「運命(呪い)は存在するか」というのが主題だった…と思う。そしてこの世には運命も呪いもなくて手前の切り拓いた道こそ全てという結論だったはず。わたしはすごくこれが好きだった。

設定としてはもう滝沢馬琴が書いてから5億回は擦られたであろう、生き別れたきょうだい・幼なじみとの三角関係(2番手がいいやつ)・死に損ない…みたいな設定が陳腐でなく真に迫る描かれ方をするのが楽しいしストレスではない。言葉だけでバックグラウンドを説明されることはままあるが、そうじゃなくてきちんとその事象が発生したときの本人の様子が場面として設けられているのが好きだった。わたしは人間のことを考えるのが好きなので、そういうところが相性がいいんだろうなと思う。

印象に残ったのは、現八の個別(?)で彼が自分の物語をぞんざいに扱って、早送りしてしまうところ。あの非常にメタ的な演出(スクリーンを兼ねたセットに表示される自分の名前をすっ飛ばす・ビデオの早回しの映像が映る)は、今のわたしたちが倍速で映画を観て物語をないがしろにしている(とわたしは思います)、自分に関心を持てずにいるとか、そういう傾向が強まっていることを示唆しているのかなと思った。そして、このシーンが描かれることが、この作品の中で多くの一般人(≒客)が個々に持つ、「語って聴かせるほどじゃない人生」、そういう人間の物語は存在し得るか?存在させたいと願ってもよいのか?というような疑問に対するアンサーにも通じるものに感じられた。(なおかつ、これは存在してよいという結論だと解釈した。)

人間関係について

はろか(夕)と信乃

信乃の無償の信頼というか、信じるに値する相手を信じ続けて、その力(物理ではなく)で相手をねじ伏せるみたいなのがよく表れていた2人のような気がする。信乃の信じる力って愛だし光だ。藍染さんはろかにぴったりでほんとにいぬ…と思った。かわいかったし殺陣もかっこよかったです。長物ではなく爪をジャって出す。

信乃と荘助

信乃の「語るのは野暮」という態度がず~~~っとかっこよかった。あれ西田さん好きなんでしょうね…。

荘助は原作のが何倍もへらへらしてない?!たぶん役者の色に合わせて調整しているんだと思う。なんか暗くてよかったです。あと浜路との関係が濃く描かれており萌えを演出していた…。わたしは2番手の悲恋男をやっている砂川さんが初めてみた砂川さんで、それがすっごく好きだったので原作読みながら、荘助だよね?!って言ってたし、役発表されてからは荘助だ♪♪♪って言ってた。そしたら想定の5倍くらい暗い荘助が出てきてそれはそれでよかった。おもしろかった。

ガネオペが原初の西田だからガネオペの話をしてしまうのですが、ガネオペの光秀⇔秀吉(信長)への感情みたいな、相手は自分のことを信じて評価してくれているが自分の中では相手が強烈な光を持っていて、まったくそれに及ばないと思っている…というのが好きです。そして信乃と荘助はそれもありつつ、荘助が最後には信乃と並ぶお話で好きだった。

崎山さんは見た目から受ける印象より声が低くてけっこうびっくりした。崎山さんの信乃はかっこよくて優しくて文句なしに信乃だった。カリスマがあるんだよ。説得力のある配役。あと布が多い衣装が似合っていてよかったです!布が多い衣装が好きだから…動くの大変だと思うけど……。信乃が捕まった荘助を迎えに行く場面はあんなにめちゃくちゃ感情を揺さぶる感じ…になるんだ(できるんだ)と思った。次の戦いに臨むために仲間を取り返すという場でありつつ、荘助が信乃に救われる場、後者のが意味としては大きい、になる。客席通路の階段から降りながら、壇上で囚われている荘助と(おそらく)目を合わせる信乃。あの演出ってEXのけっこう高い階段ならではだな~~と思った。距離も高さもけっこうあるしマジで助けに来たぜ…という感じになる。EXシアターの着席モードにしみじみすることがあると思わなかった。というかまずEXシアターで舞台を観る羽目になるとは2021年に檜山…とか言ってたわたしは思わなかったでしょう(完)。

自分にだけわかるやつとして、荘助が最後に槍を〜て書いてたあれは、原作読んだら荘助の武器は元々槍で、原典の物語の荘助としての性格を取り戻して彼は死んだんだなとわたしは思った…んですよね。だとしたらあんなにきれいな死に方ねえよな〜だった。いやそこまで考えられているかは分からないし偶然かもだけど。

信乃と浜路と荘助

この3人は「浜路を守る2人」とか、「許嫁である信乃と浜路」の関係に収束してしまいそうなのだが、3人とも実の親に育てられたわけではなく虐げられていて…という共通項から連帯する3人として描かれていてよかった。浜路は信乃にも荘助にも思いを寄せているし、けっこう荘助→→→|←←浜路→→|←(?)信乃という感じでよかった。信乃は硬派だから…よかったです。なんか信乃からしたら荘助も浜路も、当然に守るべき存在でこの例が正しいか分からないけど、子犬のときから一緒にいたきょうだいみたいな…感じだなと思う。3人のバランスが崩れないのは荘助と信乃の想いも、きちんと他2人に等しく向いているからなのかも。だから信乃が旅立ってから浜路と荘助の距離が若干近かったりする?…

浜路と道節

道節は浜路の生き別れの兄で、浜路がそうと気付かずに彼と話しているのがすごくよい。前述の3人の話を浜路から聞いて道節は安心したんじゃないかなと思う。そして道節のセリフがよく…3人のことを本物のきょうだいよりも濃い関係みたいなことを言うのがわたしはすごく好きだった。血縁がなくても共に生きることはできるし、男女でも「友人」でいることも「仲間」でいることもできるってことだとわたしは受け取って、それがどうしても自分のことと切り離せなかったのが理由。

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西田作品では女が男に混ざって、そこに恋とか愛があったとしても、別に友人とか背中合わせで戦える仲間であるみたいなニュアンスが皆無になってしまわないとわたしは感じている。前に『まほろばかなた』の感想とかでも書いた通り、フィクションだから、フィクションだからこそ強い女剣士もいるし、自分の根幹にあるものを守るために剣を取る、その選択肢が物語の中で全て排除されないことがすごく大切で好きだなと思うのだ。もちろん「実際に」それが可能かと言ったら難しいやろ…相当なことがなければ ……というのは頭にある。それでも、フィクションでくらい強くたって、信じることに忠実に生きられたって、そのくらいの「ゆめ」をみてもいいだろうとわたしは思う。だから西田さんはきっと舞台の上でそれを叶えてくれるひとなんだな~と考えるようになった。作品の中で、自分が生きている「女」という立場で、普段考えていることと変わらないことを考える「人間」の像が結ばれていて、それに救われているような気がする。俳優を眺めるようになって1年くらい経つ。ジャニーズ舞台ではあるが、おおよそ俳優がメインに据えられる舞台として初めて観たのが西田さんの作品でよかったなと思う。初心者ながらこうやってしみじみ書くと長いし重い。この部分は書きながら泣いたし…。出会いに感謝…。やっと書きあがってよかったです。

もうはくみゅですよ!!!毎回ブログの結びがこれになってしまっている。楽しみにしてます。何かあればまた追記します。