ミュージカル『憂国のモリアーティ -Op.4・犯人は二人』雑感 #モリミュ

ミュージカル『憂国のモリアーティ -Op.4・犯人は二人』@天王洲銀河劇場

鈴木勝吾は革命家だった。もうこの一文で終わりでもいいかもしれないがきちんと書きます。

 

友人が東京初日から連続で観劇しており楽しそうだなあと見守っている。一緒に入る公演が自分が初めて観る日だし、影響を受けやすいので自分も過去作をきちんと観たりBGMにしたりと触れる時間を増やしていた。単純だから、触れる時間が増えると作品もキャラも好きになる。そして観る前から、過去作の仕上がりによって期待値が上がり続けている。原作を一応今回のエピソードより先までさらって2月を迎えたのだが、正直あまりぴんときていなかった。好きな話ではあるけど、すごく熱狂するかというとそうでもないみたいな。それを変えたのが過去の映像であり、音楽でありキャラクターの魅力をさらに上塗りしていく演者の力量だったと思う。まだ劇場で今回観てないのに…。

早く紙の中から立ち上がって動くキャラクターを見たいとこんなに思うことってあるんだなあとなっている 漫画にも情報はたくさんあるのに舞台で人間が演じるようになった途端に本当に生きる人間になる当たり前だけど 共感したフィクションも理想ももしかしたらと思える 希望になる

Twitterに書いたけど、消えるかもだしこちらにも残す。これは17巻のシャーロックのセリフを読んだ勢いで打ったんだけど、これはよく自分の思ったことをきれいに書けたなと思う。気に入っている。劇場で生きている人間の演じる架空の人間を眺めることで何が得られるんだと思われることも、きっとたぶんあるけれど、さまざま作品がある中でわたしがたまたま観る機会に恵まれた(としか言いようがない)ことの多くが幸福だ。そして原作を読まないと気が済まない自分の性質も、めんどくさいけどまじめで褒めたい。原作を読んだからこそ、このセリフを、これを劇場で聴いてなるべく自分に近い場所に感じたいと願うことができて、ずっと何をとっても自分は幸せだなと思う。コナンを読んで金田一少年の事件簿を読んで、シャーロック・ホームズに行き着いた小学生がまた彼に出会って色々なものを受け取っている。

ここまでは下書きに保存してあった、入る当日の1時の文章。以下感想などです。各種SNSにも公演アンケートにも全部バラバラの感想を、それぞれの想定しているよりかなり多い分量で打ったので編集しつつまとめたいなと思います。以下原作のネタバレもあるのでご留意ください。

そのときの自分の考えていることなどと作品の取り扱うテーマ、作品に触れるタイミングが合致し、キャストについても知る機会があったためすごく楽しみにして、その期待以上のものを観せてもらえたと思った。原作漫画のシャーロック、ミュージカルのシャーロックその全てに自分がなぜ熱心に小説を読んだのか、物語のトリックや人名を詳細に覚えていないながらも、シャーロックが自分の理想だったことなど色々なことを思い出させてもらった気がした。

とにかく平野良さんのシャーロック、わたしが小学生のときにあこがれた・ときめいた人間すぎる。平野さんの演じるシャーロックは、わたしが好きになったシャーロックであり、憂国のモリアーティの少年漫画ナイズドされたシャーロックでもあり本当にすてきだった。まあみなさん色々持つイメージがあるんだと思うけれど、シャーロックは無神経で自分の興味のあることにしか興味がなくて、でも義理堅くて…とわたしの中でのシャーロック像には本当にはまっていた。不器用で無頓着で、人間の感情に疎いぼさっとした感じの人間がかっこいいのがこの世でいちばんかっこいいんだよなあ!?平野さんのセリフのテンポ、歌唱のリズム感すごく好きです。グルーヴ♪愛♪

平野良シャーロック・ホームズ 役)

個人的にシャーロックホームズは昔から憧れていた存在なので

鈴木勝吾の怪演光るミュージカル『憂国のモリアーティ』観劇レポート

公演後にこれ読んで左様…となりました。ありがたい。

シャーロックの考え中開始!のヴァイオリン、それぞれの場面によって微妙に続き方が違っていて楽しいです。ミルヴァートンに「大嫌いだ!」って言うの、それまでとトーンが変わって大嫌いだって怒鳴っていて本当に大嫌いだなあとなる。だよね。ジョンに迷惑をかけようとしていたんだもんな。

そして勝吾さんのウィリアム、力がある。でもだんだん弱っていくんだなあという片鱗が見えてきて、厳しい(楽しい)!カリスマ性を持った神にも近い存在から人間に降りてきたウィリアムでした。でも歌唱シーンになると場を支配する、理想を掲げてモリアーティ陣営を率いる人間でもあったと思う。あと感想でもよく目にしたけれど、顔に出すぎていてめちゃくちゃ痛々しい。「大丈夫」って言うの、全然大丈夫じゃなくて「待ちな!!!大丈夫じゃ、ない!!!」と肩を揺さぶりたかった。

これは俳優の文脈なので、知らん人は知らん話になってしまうのを前置きして話すと、勝吾さんのやった薄ミュの風間千景はさんざん人間と羅刹に対して「力なき思想」の無駄さを説くんですよ。これがゲームを進めていてもすごく印象に残っていて、これは憂国のモリアーティにも通じるテーマだなあと思っていた。力を持たない孤児に、知恵を持たない貴族のはぐれ者が出会って、力を持った思想を貫く存在になろうとする。曲がりに曲がった見方だけれど、勝吾さんの過去のインタビューなどからも、自分の実力が伴わなければ何を言っても話を聞いてもらえないとか、素通りされてしまうみたいなことを感じたことがあったのかなとか考えてしまった。それが彼をお芝居、歌に加えてにじみ出てしまう雰囲気もウィリアム・ジェームズ・モリアーティに仕立てているのかなとも。まあこれは勝手に思ったことなのでちげーし♪と思ったらちげーし♪と思ってください。ちなみにウィリアムのソロで1番好きなのはOp.2の「この世界を」です。

そしてアンサンブルが生きているのが、この作品の魅力だと思うと友人から聞き、注目すると決めていた。アンサンブルのみなさんがいてこそ、憂国のモリアーティという作品が自分たちに身近に感じられるんだと思う。みんながそれぞれの人生を、弱くても必死に生きているのが伝わる。特にホワイトリーが街に出ているときに市民が彼のもとに駆け寄るのがすごく好きだった。彼が死ぬときも、ウィリアムの思惑通り市民の心に希望が潰えた怒りと、それに伴ってなんとしても達成したい願いとして選挙法の改正が掲げられるのが想像できて泣いた。これは録音なのかも…ですが、公園の落成式でホワイトリーが糾弾されたときの野次に「ちゃんと説明して」みたいなものがあり、説明責任を果たしてもらって、それに納得したい、彼を信じたいと願う気持ちも見えてわたしは好きな作り込み方だなあと感心していました。ホワイトリーのエピソードではずっと「人間は弱い」と思いながら観ていた。ホワイトリーの屋敷での殺人も、誰かがその弱さを突かれて起きたことであり、何かを背負うことはもちろん悪いことではないが弱くなることなんだよなみたいなことを今考えました。

16巻の机に突っ伏すウィルとアルバート、煉獄の焔、ゴルゴダの丘を登るウィル(これ本当に丘が見えた→奥にあるセットの階段の手前の段が道に見えた…のかなとこれは意図してないと思います)、もう単語でしか書きたくないよ…。そして、シャーロックは光であり、自分を救えるのは死しかないと確信しているウィリアムを誰も引き留められない。終わりの始まり。

Op.3から、ウィリアムは「風」について歌っていて、ああ誰も今の彼にとってモリアーティ陣営は風になれないんだよなあと思って辛かったし、Op.4ではもうシャーロックしか明確に彼の中で光ではなくなってしまう。そして市民の間でも犯罪卿はウィリアムの狙いの通り疑りの目を向けるべき存在になっていく。原作で1部の完結を見届けていてもずっとつらい。そしてOp.1の最初のナンバー「大英帝国」だと「どうか地獄に光を」とあって、義賊:犯罪卿が「光」なんだけどもう、今回は「光」は明確にシャーロックになっているし、光量が全開になるのもラストのシャーロックの歌唱~EDだし、平野さんがパンフで話していた通り転換が始まっているんだなと色々復習して理解できた…はず。

モランのソロ、良いのですがこの先の展開を思い浮かべながら聴くのでどうしてもウィルを取られてしまった…と思わずにいられなくて「モランは、負けヒロイン(概念)だから…」と口走ってしまった。最悪の感想である。ルイスのパートでソファにピンスポが当たっているのもすごくよかった。フレッドとルイスの曲は細かいきらきらした曲なのもまた分かるし、切ない。

原作を読んでいるときは考えもしなかったのは、ホワイトリーとアルバートが対比になってるかな?と思えたこと。彼にアルバート接触するのは貴族院議員という立場上当然なんだけど、自分が社会を正したくても犯罪卿になって、ウィリアムの「勇気」を借りなくてはできなかったという過去・原罪と、政治の世界という正攻法で、単身で変革を起こそうという正しさとの対比をはっきりと感じさせるもので苦しかった。パイプオルガンの音が聖性を演出してさらに最後にアーメン(讃美歌の最後には2音あって、アーメンと歌う)なので…。あの場面はアルバートが、ホワイトリーに願いを託した祈りだなあと思った。

→これが初見の感想で、原作を読み返してそうじゃないアルバートはホワイトリーにかつての、孤児院の礼拝堂にいたウィリアムを重ね合わせているんだろうなと思った。ホワイトリーが革命の主導になれない限りウィリアム「のみ」の死を予感しているからこそ、「理想のために人を殺せるか」と問うたときのことを、2人の苦しみの始まりを思い出しているはず。

例のウィル書斎16巻の場面冒頭、アルバートとウィルの立ち位置に高低差があるのもよかった。記憶があやふやだけど、2幕でアルバートが曲の最後に何を歌って締めるのか初見なのに明確に当てられた。アルバートはずっと、自分の力を分け与えるしか自分にできる正しい行いはないと思って苦しんでいるけど、それでもミルヴァートンの歯牙にかかり殉ずるまでひとときホワイトリーに希望を与えたし、何より本当はずっとウィリアムに希望を与えていた。本人は今(Op.4時点)それに気づいてはいないけれど。

あと今回初めてアルバートに殺陣があるそうなのですが、漫画では一応陸軍として殺しの場面も軍服を着ている場面もある。その差は、ここまで殺陣がなかったというのは、ミュでは徹底して「きれいな」ままでいることを強調したかったのかな?とか考えた。幼少のエピもざっとさらうだけだし、ずっと漫画に比べてアルバートの存在感が薄い気がするなと思っていたのですが、単純に物語の進行に必要なものだけを残していったからなのかもしれない。でも今回、アルバートの後悔を描きながら殺陣があるのは、ウィリアムとの関係の延長でアルバートが(劇中において)今やりたいことが何か考えると自然なのかな?とか思った。文字通り、自分の手を汚して、ウィリアムのやってきたことと同じところまで降りることなのかな〜などと…。勝手に考えました。

わたしは血のつながらない3人がその志でもって団結しているのを示す「3人でジェームズ・モリアーティ」というセリフがすごく好きで、見聞きするだけで本当に泣いてしまうのですが、だんだん「3人で~」ではなくなってきてしまう、その厳しさが伝わる内容が多いと思っていた。そしてジェームズ・モリアーティの罪を負う照明がたぶんブルーグリーンで、ウィリアムに当たっているあのスポットがシャーロックの登場でバシーーーっと消えるのが気持ちよくて、気づいてから観ていた回では全然笑うところではないのに高笑いした。大興奮。

モリミュは人間がみんなきっちり物理的に殺される。これは後々私刑を許さず、法をもって裁くべきというテーマが出てくるからだと思うんだけど、観てるわたしたちもある程度あの悪をもって悪を制する場面にカタルシスを覚えているので実質共犯になっているのでは?とか考えて感心してしまった。かなり先の話になってしまうけど、後からわたしたちも衝撃を受けて内省すべきなんですよ。モリミュ、おもしろすぎる。

問題のシーン選

屋上と結婚とシャーリー

ジョンとの関係を一歩ずつ進展させている(?)シャーロックに早くも別れがのやつです。メアリー初見時から挙動が拗ねた「いきもの」すぎる。Op.3でこっから先は大人の俺たちの仕事♪とか言ってたのから精神年齢が10下がった。これ以上事件を深追いすることの非合理性を説くうきうきした声、おもろすぎる。そしてミルヴァ―トン別邸襲撃で今後の計画変更についてお知らせしているとき、一切ジョンの方を見ないのが大好きなんですよね。でも人格形成が未熟だったころなら説明すらしてくれないまま単騎突っ込んでいったかもしれない。シャーロックが恐怖の谷でジャンスクのヒーローになれるのは、ジョンとハドソンさんの情操教育のおかげ。

屋上の曲、穏やかすぎる。ジョン、テンションが上がると声がデカくなるのでディズニーっぽいと言われてるのを読み大爆笑した。2人の掛け合いもディズニーっぽい(?)アナ雪を想像してほしい。あと「友情」って口に出してしまってからまずい…という表情態度になってしまうの、愛おしすぎる。そして「友情」と口に出したときも、こうなんか、そういうもんが存在すんだな…みたいなジェスチャーが付いていて、論理的に、定量的に、説明できない目に見えないものの存在をいまいち理解しかねる…みたいなシャーロックの性質が出ていてよかったと思います。そして結婚式出られなさそうだわと告げるとき「お前の」じゃなくて「お前らの」なのに対してふ~ん、メアリーのこと、認めてんのね…と思う。

ミルヴァ―トンが私の力に推理力なんか敵わんよと言っているとき、あ~自分はやっぱり知力みたいなところで人間を好きになり評価しているんだなと思った。この物語は徹底こそできないがペンと剣的なところもあり、そしてこの作品自体もペンと剣で言うなら「ペン」の側なんだよなあと思う。何重にもなった、この作品の語りたいことが好きだった。

Catch me, if you can, Sherlock/I will catch you, Liam

お前がここにいるってことは間違いなく「そう」だったんだ

ああ犯罪卿/お前が/俺の思うお前だったなら

だよなあリアムそうだよなあ、お前でよかったよ

俺は正直お前じゃなきゃ嫌だったんだ

お前であってほしかったしお前じゃなきゃだめだった

だから、ここにいるのがお前で本当にうれしいぜ

BIG LOVE―――

確変。シャーロックのこの畳みかけるような語りがだ~~~~~いすきなんですよね。やっと出会えてよかったねとなる。わたしもこの部分でシャーロックが大好き!となるんだけど、シャーロックはリアムが大好きだからなあ…となる。不毛。

石に打たれ歩く茨道

石に打たれる・キリスト教といえば「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」*1なので、そう考えると、ウィリアム「だけ」が石に打たれているのは本当は正しくなくて、モリアーティ陣営全員ひいては罪を負うべき社会の構成員(≒貴族・中間層など搾取に加担・黙殺している)全体の罪なのではないかな~と思ったりしました。なんかこういうのは勝手に考えてしまうだけだけど、物語がそうであったらいいなという願いもある。何度観てもこういうことをたくさん考えられる歌詞・セリフで、含みのあるライティングですごく楽しかった。

やっぱウィリアムを救えるのは、隣に並んで立てるのは、シャーロックしかいないんだよな。感想の全ての〆ってこれにしかならない気がする。

そして初見時シャーロックのI will catch you, Liamが本当に好きだったのですが、圧倒されていたのでやっとどういう流れ何を歌っているのか確認した♪ありがたいです。

*

座長の平野さん、勝吾さんから西森さん、ただすけさんなどカンパニーがおそらくひとつ、同じものを見据えて作品を作っているというのが垣間見えて、客席と舞台、会社員と芸能人、観劇しているだけで、違う立場にいても同じく隣に立つ人間がいてくれるような、そんな気持ちになる公演だった。東京初日開演前に客席から連絡をくれた友人は、勝吾さんのパンフレットのインタビューへの受け答えを絶対に読んでとわたしに伝えつつ泣いていたらしく、わたしも観劇後家に帰って読んで普通に泣いた。公演アンケートを書いていても泣いたし、原作を読み返しても泣いたし、Op.2の場面を思い出しても泣いた。それだけ今自分の心に迫るものがあったんだろう。わたしが観られてよかった・うれしい・おもしろいと思うのは、本人たちの意図するところであり、それがうれしい。この作品のおもしろさは単純に「笑えて愉快な気持ちになれる」というだけではない。考えることが好きだから、色々なことを思い返させてくれて、考えさせてくれて、それがおもしろい。そして、そこで受け取ったものによって単調な日々の生活をもう少しマシにしたいと思えるみたいなのが演劇の効能だとわたしは信じている。モリミュはそれが実現されるであろう作品だと、自分の受け取り方はそうだったというだけではあるが、すごく強く感じていて特に実際に劇場で体感できてすごくうれしかった。シリーズが完結する前に出会えて本当によかったと思う。

本日も
#モリミュ
忌まわしき階級制度を打ち砕くべく、権力の横暴を止めるべく、大英帝国を憂い闘い抜きたいと思います。

それはきっと今の僕らにもつながっていることだから。

2023/2/10-@Shogo_Suzuki_

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→そもそも、2.5というジャンル分けだって、原作が小説だったらなされない・演じる役者がこれまで2.5に多く出演している人間じゃなければなされないもので、なんだかあいまいな括りだなと思う。2.5俳優という括り、あまりにもあいまい。「出身がテニスか特撮で、以降は各種舞台作品に出ている」というのがそのテンプレートだと思うが、そういうひとたちも別に、普通に一般向けの(?)舞台にもミュージカルにも出る。これまで自分も2.5だからと敬遠してきたものは間違いなくあるけれど、この作品がそのレッテル貼りのせいで届かない層があるかもしれないというのは(勝手に)客である自分も、きっと作っている側としても口惜しいだろうなと思うようになってきた。逆に、2.5とされる作品だからこそ観る層も間違いなくいて、ミュージカルや演劇との出会いがこの作品なのは、うらやましい。これまで観たものも、好きだったものも自分を構成するのに必要不可欠だったと思うけれど、この作品が初めて観るミュージカルだったらよかったな~と思ってしまう…。(笑)

2.5次元というなんかキワモノ扱いされるジャンルで、この物語が再解釈されて世に出るのがそもそもかなり抜け道を使った主張に感じられて、わたしはすごくおもしろいと勝手に思ってしまった。誰がするものであっても「政治的な発言」がクサいとか、とっつきづらいみたいな風潮は間違いなくずっとあるが、それがキャラクターを通じて語られることでそれはあくまで物語のことであり脱臭された理想になる。だからこそキャラクターの名前を冠さずに生身の人間が語るものより、多くの人間に届く可能性を秘めていて、わたしにはすごく興味深い作品だった。フィクションのキャラクターは理想を語るにふさわしい、純度の高い存在だからノイズが低減されて、真剣に社会のことを考えたり、物語の人間に思いを寄せて観られたし、楽しかったんだろうと思う。

何より形に残るところで作る側のひとたちが物語の主題について言及してくれるというのがすごくありがたかった。前にも書いたけれど、自分が観て考えていることと、作り手の意図するところが嚙み合っているというのはコミュニケーションであり、物理的な接触・近接がなくとも作品の価値を高めるものなんだと身をもって感じた。もう今後こんなに自分の予想をすごく良い意味で超える作品はきっとないんだと思う。2023年に劇場で観られてよかった。

パンフで、西森さんはいつかこの作品は古典になると書いていた気がするんだけど、ミュージカルで市民革命を描いた古典、レ・ミゼラブルのことを念頭に置いているのかな?とか考えた。あれはフランス革命の話だけど、フランスとイギリスは長く対立関係にあり、どちらも世界史の市民革命の項では必ず取り上げられる国で対照的と言えばまあ、間違いではないのかもしれない。レミゼ、映画も実は観ていないので…劇場で来年の公演を観たいなと思います。

1回観るだけで幸せになれたけど、観る前からこれはなんとかしてもう1回でも観ないと後悔しそうだと思いチケットを譲ってもらった。正解でした。潔くてかっこいい作品。漫画からミュージカルに起こすにあたってすごく練られて、別の作品として、また同じ作品として、原作が好きでこの先の展開を知る人も楽しめる仕上がりだなと思う。

→いろいろあり、最終的に3回観て、友人に感謝しました。友人もそもそも観劇のきっかけを作ったわたしに感謝しているし、ずっとLINEでも対面でも「ありがとう…」と言い合っていた。ありがとう…。

また何かあれば追記します♪上司に(モリミュ行くので)会社休むと伝えてきます。

→のんきなこと言ってたら公演予定月まで発表があり、そういうところも含めてかっこいいな~と思いました。Op.5楽しみにしています。