朗読劇 朝彦と夜彦1987・雑感 #朝夜2024

朝彦と夜彦1987(2024)

1/13・2部:桑野晃輔・加藤ひろた

「朝彦と夜彦1987」4組が紡ぐ“切ない友情物語”、中屋敷法仁「ぜひ劇場で体感して」 - ぴあエンタメ情報

 

菅野彰はわたしが初めて自分で選んで読んだBL小説の作者で、わたしはそのシリーズがすごく好きだった。読んだのは14歳のころで、好きだからいつか揃えたいなと思っていた。まだたぶん1/3くらいしか揃えられていない。自分が生まれたくらいから連載が始まってまだ…続いているのである。当時なぜか自分の中でエッセイブームが起きており、分かっていたのか分かっていなかったのか不明だが海馬~も読んでいた。それは今まで通じるようにブログやインタビューで会ったことのない人間や芸能人の世界を垣間見ることを好む原点のような気もする。

中屋敷法仁はわたしが舞台観劇と俳優を眺め始めるきっかけというか、眺めようと思って最初の作品を手掛けていた。

彼がどんな作品に携わっているのか知らなくて、調べている間になぜか菅野彰の名前が登場することに気づいた。そこから頭の端にずっとあった作品が、朝彦と夜彦1987である。一定期間で再演しているからやらないかなと思ったのはちょうど本棚を片付けていて見つけた菅野彰の著作や図書館で借りたエッセイを読み返していたころで、その2週間後くらいに再演が決まった。

大袈裟を言ってもいいなら「運命」だとは思いませんか?*1

自分がかつて好きだったものが今見返しても変わらず好きであること、何が好きなのか明確に理解できるようになっていること、また今自分が持ち合わせている倫理であったり思想にもマッチしていることが多いから不思議だなと思う。今眺めている界隈で、また好きなものと出会えることは幸福である。

あとキノで観て他も観てみたいなと思った加藤ひろたかさんをこの作品で/この作品を加藤ひろたかさんで観ることができてしあわせでした。

前置きがなが~~~い!以下雑感です。※他にもいろいろ感想あったはずなんだけど朗読劇だから映像としての記憶が薄すぎてなかなか思い出せなくて苦しんでいます…。

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わたしは朝彦側だなあと思って観ていた。去年の11月くらいから自分があまりにも"普通"で優しくなく競争原理にのっとって暮らしてきた忌むべき存在……みたいなことを定期的に考えて落ち込んで、いやでもそうならないとゴミとして扱われる世界で一応surviveしてきた自負があるし、そうなってしまうのは…仕方なくないか?!と思ったりしていやそういうことを言うから…とまた落ち込む…みたいなことを繰り返しているので、出会うべきタイミングで必要な作品には出会えるんだな~みたいなことを考えた。

夜彦をみながら夜彦は阿蘇芳秀にも勇太にも似てるな~と思っていた。これを書きながら他ペアも観るべきだったという後悔がめちゃくちゃ出てきた…。この内容で落としどころが"そう"なのがわたしはすごく好きだったし、ここからいくらでも落とせるよなこの話はと読み進めても、けしてどん底にはならない、少しだけ問題が起きる前よりも進んでいるそういう作風がたぶん好きなんだろうと改めて思った。圧倒的成長みたいなフレーズがすごく嫌いで、でも停滞するというのも気に食わない、そういうのが自分だしまあそういうのが人間の現実だと思う。それを描いてくれるからたぶんわたしは菅野彰の書く物語が好きなんだと思う。寛解がよいことみたいな考え方はたぶん変だ。それでも、本人が苦しいところから少しでも抜けられる時間があるのならそれは、わたしが勝手に安心するわたしの安寧だと思う。あくまでわたしにもたらされるものだとしか言えない。それが朝彦と夜彦の描く他者性だと思うから。でも、きっとそれが相手にとってもつかの間でもよいものである可能性はあるし、わたしが安心しているからこそ祈ることもできるはずだ。

夜彦が父が死んだときから自分はうそをつき続けていると話すのを聴いて、もしかしたら自分もそうかもしれないとも思った。親含めて関係が築かれる小中あたりを超えると、改めて"両親"が何か尋ねられることが増える気がする。離婚家庭だから父親は生きているが何をしているのか知らないし、何してるの?と聞かれてもよくわかんない~と答えるのが適当で妥当だった。深追いされてあれこれ考えられるのも面倒なのだ。他人はそんなに他人のことを考えて泣いたり笑ったりしないのかもしれないが、当時の自分にはそうは思えなくて嫌だった。自分の状態とは違う自分の像が、何か自分の属性によって作り出されてひとり歩きしたらと思うと気持ち悪い。それは今も変わらない。

過去公演の感想を読んでいるといろいろ解釈が、見え方が分かれるようなんだけどわたしは過ぎてしまえばなんとかなる、なんてことなかったと思えるようなそんな夜彦の芝居だったと思ってしまった。あのとき感じた痛みも苦しみもなくなったわけではなく、たしかに自分の中に眠っているけれど、それをなんとか飼いならしていくことができるようになった夜彦。それが30歳にと約束した朝彦の存在があったからこそだなとわたしには思えた。

いつも自分にはない性質を描いた作品に触れて考えているけど、それが暴力じゃないと誰が断言できるのだろうと思う。観た後にある短文を見かけてけっこう落ち込んだのでこれを書いている。自分はたぶんグレーだと思うけど傍から見たら典型的な定型発達なので、気を付けてることとか苦手なこと全部、つまびらかに話したりしないけれど「定型」と切り分けられて偏見を持ち差別をしていて悪いというように言われると「おお…」と思う。拒絶だなあと思う。もう何もできない、身動きが取れない。いなくなればいいんだろ?!と思う。これ以上自分が前に進もうと動くこと、例えば苦手を克服しようと思って(それは自分がそれを不愉快だと感じて動けるから)活動すること、そのノウハウを自分で見つけるためにかけた長い時間も一言に収斂されてないがしろにされているとわたしは思ってしまう。自分の立場から語ることはどうしても説得力がなくて軽薄でよくある言葉だ。ただ在るだけでも強者であると、事実そうなのかもしれないが、なじられているような気分になることもあるのに、相手のことを考えようとして拒絶されたらわたしの脳も心もどこにいけばよいのだろうなどと考える。全部傲慢かもしれないし「よく考えているポーズ」に見えるかもしれないけれど、でも考えないよりはいくぶんマシだろうとわたしは思う。ゆえにそれをやめることはできないとも思う。

友人とも以前話したが完璧な、全てを解決する選択肢などこの世には存在せず、中でもいくぶんかマシなものを選び続けて目指すものに現実を引き上げることしかわたしたちにはできない。だから選ぶ気力もあって起き上がることも一応できる人間が、できるときにそれを実践することで、多少現実をマシに保てるそれがいつか誰かのためにもたぶんなるというのがこの世界ではっきり言えることのような気がする。するので、あれこれへこんでないでテメーが信じることをテメーができる範囲でやっていくしかない…というまた当たり前の結論にたどり着く。この先再演があったら友人にも観てもらいたい作品だった。そして複数組み合わせがあるなら次こそ全部観てみたい。何卒…よろしくお願いいたします。

オーディオブックあるんか~い。貼っておきます。戯曲公開はなし、Wingsに掲載されただけだそうなので公演なくても話の筋が分かるのってここからくらいしかなさそう。てかWingsもう買えないし……。泣 あらすじとか細かくセリフ挙げてくれてる感想ブログも割とあるので興味があったら調べてみてください。

朝彦と夜彦1987 | 日本最大級のオーディオブック配信サービス audiobook.jp

*1:春夏秋冬☆Blooming!