「履修」について・水星の魔女

新クールのアニメが始まるとアニメをみているひとが多いタイムラインでは評判が飛び交う。前クールはリコリコの善し悪しとかがけっこう議論されていた?印象がある。わたしがウォッチしているのがアニメ批評・おたく分析・精神科医とかだからなのかもしれないが…。昨日から引き続き友人と話した内容について書く。

タイムラインを見すぎて「履修」しなければならない(!)作品が増えていくのがプレッシャーになる。わたしもおたくを名乗るので、アニメはみないとなと思うのだが、ドラマもアニメも継続視聴がすごく苦手である。苦手でそれなりのプレッシャーも感じるのだが、中途半端になってしまってもまた思い出したときに続きから始めればいいやという風にも考えてしまう。

たぶんこれが友人との違い(違っているのかよく確認していない)で、昔から図工で壮大なことを試して作品が最後まで作り切れなかったり、連作の漫画をお小遣いで揃えられなかったり(飽きる場合もある)、そういうことの積み重ねで中途半端になってもまた将来思い出せるものが自分にとって印象に残ったものだと考えているような気がした。

だから会社員になってから揃えた漫画も観たアニメもたくさんあって、それでよかったなと思う。昔の自分が今のようにみて、考えたり感想を持ったりすることはなかった気がするからである。それでも若いころに触れて感動した経験というのが自分には少ない気もするので、少し惜しいのも本音だ。

今期はアイドリッシュセブンと(一応)弱虫ペダルと水星の魔女をみている。

水星の魔女、ep.0よかった。うろ覚えだが「赤子が服を着るように、ガンドなしでは我々は世界と接続できない」というようなセリフがあってわたしはすごく好きだった。よく音声優位とか言語優位みたいな、認識の特徴を診断するテストが話題になる。それと同じことで、自分たちを取り巻く「世界」を何によって捉えるかは人それぞれで、そこに優劣はなく、ただ媒介として存在しているのだと思う。

プロローグに登場するエルノラは義手というか、腕をガンドに置き替えている。彼女はその右手で自分の娘に、夫に触れる。ガンドによってエルノラは世界と関われている。彼女はこれがなかったら死んでいた、命の恩人なのだとガンドへの置き換えを行った博士について語るけれど、描かれた時代の技術で腕を片方失くして「死ぬ」=絶命することはないんじゃないか。そう考えると人間が世界と接続されないこともまた死のひとつだと言われている気もした。