魔女旅に出る

何かを名乗ることをしなくても平気なのはマジョリティの特権だという言説がある。たしかにそうかもしれない。今の自分を、見えるところだけ見ればシス女性だし俳優(男)が好きだしマジョリティだから楽でいいですねと言われるんだと思う。そういう言葉を見るたびにそうか~と思う。そうか~っていうのは、見えるところだけで判断してしまう人に、逐一400字くらいの説明をしないと自分という存在がどう考えて社会に圧縮されて変化して今の形になったのかっていうのは伝わらないし、そうやって一言で切り捨てられてしまう方が楽ではあるな~じゃあもういいか~というそうか~である。わたしはこう考えてしまうが別にこれは万人にとっての最適解でないとは思う。それでも、自分よりも苦しんでいる人がいるのにそこそこ適当にやって暮らしている自分なんかが辛いとか言うのはヘンだよなと思って、事実、ヘンだと思われるんだと思う、だからあえてへらへらしていて何も話さない人間だっていることも少し想像してみてほしい。

※追記:話さなきゃ伝わらないっていうのが自分の基本的な考え方だけど、それと他者の想像力に期待することはわたしは矛盾していないと思っている。それにわたしがつれー最悪もうだめだーって思うことって暮らしててまじで一瞬なので、その一瞬を切り取って周囲を巻き込むっていうのも嫌だなあとか思うのもある。

それに加えて存在する名称を使うことで、自分が何かよく分かっていない状態を客観的には"理解"されてしまうというのにも納得がいかない。ある程度名乗るならこの辺だろうというあたりはついているのだ。でもそれが嫌で何も言っていない。親にも。言葉に付随するイメージ、そんなものは気にしなければいいし、そもそもそんなステレオタイプを持って接してくる相手がよく分からんというのが正しいけれど、実生活で、その視線を退けるのは相当な労力が必要だ。わたしは自分を性的指向を示す単語で説明すること自体がそもそも、あまり得意ではなくて、聞くのも苦手である。だから名乗らないことを選んでいる。

わたしの好きな西田作品のテーマには名前を付けるっていうのがある気がしていて、それは名前をつける・もらうことでその人間がどう在るべきか、どう歩いていくか指針をつかむみたいな話の表現として存在している気がする。ここまで書いていてそれをなんとなく思い出した。それを参照するとやっぱり自分が納得して、必要としている名前だけしか要らないやって思ってしまう。思い立っての表明というか、書いておきたかったので書きました。